どんつき番外編#2 ちょっと前の八重の話。

本編より前、八重が愛人になる決意をする~ちょっとだけなった後のお話。
今回は愛人おじさんの気持ち悪い一人称作文なので、注意してくださいとだけ言っておきます。
(実際自分で読み返しててきんも~~!!!って思ってました)
2P目は例によってあとがきなので、特に見なくても問題ないやつです。


「……疲れてます?」
 最愛の人からの言葉は、自分の変化に気づいてくれたことよりも、心配させてしまった申し訳ない感情が優先される。そう知ったのは、彼と出会って初めて知ったことだ。
「八重には、僕が疲れてるように見える?」
 我ながら、意地悪な質問だと思う。彼の回答に対して、どうとだって返すことが出来るのだから。
「……なんとなく、ですけど。いつもより、クマが濃い気が――」
 実際、自分が疲れているかどうかなんてわからないしどうでもいい。それよりも、愛する人が「いつもと違うね」と言ってくれたことの方が、僕にとってよほど重要だ。ただ、心配してくれたこと、その事実――それだけが愛おしく、僕は彼の言葉を遮るように唇を塞いだ。

 ***

 僕と八重が出会ったのは数ヶ月前。
 戯れで入った、2丁目のミックスバー。そこにバーテンとして勤めていたのが彼だ。
 これまで、僕は真面目に生きてきた。テレビ業界にいつつも、社会的に傷がつくようなことも、週刊誌に書かれるようなこともしていない。学生時代からの恋人だった女性と結婚し、子供もいる。……当たり前のような幸せを得て、不満はない。どこか物足りない部分もあったのは確かだけど、それは今が満たされていることの裏返しだと思っていた。
 もちろん、胸に開く空白の答えがここにあるとは思っていない。今や2丁目は半分観光地になっているし、ミックスバーに入ったきっかけも、単純に酒を飲みたいというありきたりな理由だった。
 
 ――そんな、意識もしていなかった場所で、今までの人生を覆されるような出会いをするなんて、誰が考えるだろう?
 
 そもそも、生まれてから「自分は異性を愛するもの」と自然に刷り込まれてきた。だからこそ、同性を愛する人間は悩むのだ。「自分は他の人間と違う、多数と違う」と。
 僕も大多数の人間と同じで、女性を愛することが普通で、当たり前だと思っていた。だって、そのように人間はできているのだからと、疑うこともしなかった。

 だけど、彼を一目みた瞬間、どうしようもないほどの感情の揺れを感じてしまった。
 正直、理由は全くわからない。どうして彼に惹かれたのか?どうして、男性に対して劣情を感じてしまったのか?……その答えは、今でもわからないままだ。
 男性にしては華奢な体つきながら、決して身長は低くない。右目を隠すようなアシンメトリーの黒髪は美しい艶があり、隙間から見える瞳は深海のような包容力を思わせた。
 女性から人気がありそうな風貌をしながらも、この場所にいるということは――きっと、そういうことなんだろう。
 
 常連と思える男性たちの誘いを軽やかにかわしつつも、その先の「なにか」を感じさせずにはいられない妖艶なものを秘めているようにも見える。
 一人だっただからだろう、カウンターに通されたことを心の中で感謝しつつ、ただ、彼の姿を2つのレンズの中に収めようと本能的に追っていた。そんな僕の挙動に気づいたのか、彼は、ほほえみながら僕に優しく話しかけてくれた。
「お客様、こういった場所は初めてですか?」
 この時、初めてわかった。

 これが一目惚れというもので、この気持ちは僕自身で制御できる領域にはないのだろう、と。

 それから僕は、時間ができれば……いや、時間を作ってでも店に顔を出すようになり、常連という立場を手に入れた。
 僕が好きになったバーテンの彼の名前は、須堂八重。妹の学費を稼ぐために昼夜問わず働いているという、なんとも健気な背景を持つ青年だった。

  ***

 店に通えば通うほど、八重はあの店に不可欠な存在だと感じる。
 常連の相手はもちろん、初めてこういった場所に来た客に対しても、萎縮しないように柔らかい雰囲気で接している。彼自身の容貌もあるのだろうが、それだけではない。彼から接客業としてのプライドを感じられる場面は多々あった。

 こういう場所柄、仕事が終わった後に……と、客に誘われる従業員を見るのも日常風景だ。八重は人気なこともあり、そのような場面を頻繁に目にしたことがある。しかし彼は客からの誘いは全て断っているからと、笑顔でかわすのだ。それよりも驚いたのは、そんな八重の行動に対して激昂する人が全くいないことだった。「八重ちゃんが言うなら仕方ない」と、皆折れてくれる。僕はニ丁目のバーを制覇したわけでもないが、彼の誘いをかわすスキルは相当高いのではと思っている。
 表ではそういっていても実は裏で……なんてこともよくある話だが、八重に限っては違うようだった。ああ、そういえば学生につきまとわれている……という話は聞いたが、全く相手にしていないようなので、僕の中で問題にはならない。
 きっと、色々な誘いがあるだろう。それでも、あくまで客と店員の立場である、と一貫した態度を貫く八重は、僕にとってはとても高潔な存在で。――だからこそ、僕のものにしたいという、仄暗い欲望に火をつけた。
 
  ***

 八重が勤めるミックスバーに通い始めてから数ヶ月。僕にはひとつの考えがあった。
 僕はテレビ業界のプロデューサーとして長く、ある程度自由に使える金はある。彼は、大事な妹のためにお金を必要としている――それなら、僕が金銭的な援助をすることを引き換えに、彼を愛人に出来るのではないかというものだ。
 正規ルートではなく、こんな汚い方法でしか手に入れられないと思っている自分は、とても情けないと思う。でも、彼が僕を好きになってくれるであろう可能性は、限りなくゼロに近い。だからこそ、どうしても彼が必要としているもの……金で買うことに帰結してしまうのだ。
 自分でも馬鹿げていると思うし、仮に彼が首を縦に振ったからといって、心が通いあってなければ意味がないと、もう一人の自分が後ろで叫ぶ。それでも、僕は、八重を独占したい。

 一瞬で僕の心を奪った、彼を。どうしても自分のものにしたい。

 こんな気持ちが生まれるのは、30年以上生きてきて初めてのことだった。何を支払っても、何を犠牲にしても。それが偽りであっても。
 ただ、彼が自分の腕の中にいることが至上の幸福だと。そんな、歪んだ欲を持ってしまっていた。

   ***

 ある日の、閉店時間近く。客は幸いにも僕しかいなかった。
「今日は遅くまで飲まれてるんですね」
 八重がほほえみながら話しかけてくる。彼は今日も美しい。その手や髪に触れたい衝動を抑えるのが、日々厳しくなっているのを実感している。
「……今日は八重に話があるんだ」
 僕の言葉に、八重は不思議そうな顔をした。
「なんでしょう?転勤されるとか、ですか?」
 大体、こんな風に改まって話をするのは、「もう店には来られない」という宣言なことが多い。八重もそれを察し、「今日が最後なのか」という意味を込めて聞いたのだろう。
「いや。……八重、もしよければ、だけど。僕の愛人にならないか?」
 僕の発言に、八重の顔がこわばる。多分この表情は、バーテンである彼の顔ではなく、素の「須堂八重」が持つ顔だ。
 本来であれば、彼にスタッフの顔を崩させたことを後悔するべきだろう。しかし、僕は彼が張っている壁を1枚超えられたのかもしれないと、喜びの気持ちの方が圧倒的に大きく、少し足が震えていた。

「……どういう意味でしょうか?他のお客様にも言っていますが、俺は――」
「店外で関係を持つ気がないのは知っている。だから、契約したい。僕は君に月50万円払う。あと、住むところも用意する。……この条件で、愛人として契約を結んでほしい」
 我ながら、金で関係を持つなんてほとほと呆れる。彼が妹のために金を必要としていて、そこを突いた形なのも笑えるくらい卑怯だ。
 
 だけど、そんな手を使ってでも。僕は、八重という人間が欲しかった。例え、気持ちが僕にこれっぽっちも向いていないとしても。
 彼に触れて、自分のどうしようもなく濁った気持ちを、彼にぶつけたいという欲を満たしたかった。

 八重は、浅く目を伏せる。濡れたように黒いまつげが、彼の妖艶さを引き立たせていた。
 間違いなく、彼は迷っている。僕は良心を遠くに蹴り捨て、ただ彼が僕のものになるようにどう言えばいいのか、それだけに頭を回転させた。
「愛人といっても、常に側にいなければいけないわけじゃない。僕にも家庭があるから、せいぜい週1程度相手をしてくれればいいだけだ。当然、君の交友関係にも口は出さない」
「それは、俺を、買うってことですか」
 思い詰めたような、蔑むような。様々な感情を含めた瞳で、八重が僕を見る。予想ではあるが、彼が必要な金額に、今のところ大きく届いていないだろう。
 そこに現れた僕という存在。八重は賢い。理性で考えれば乗るべきだと思っている、しかし、彼自身の尊厳や本能は拒否している――そんなところだと分析する。
「端的に言えばそういうことだね。……でも、君としても悪くない条件だと思うんだ。言い忘れていたが、昼の仕事とこの店は辞めてもらいたい。でも、君自身の時間は増えるし、自由時間に関して制限をする気はないから、悪い話ではないと思うけど」
 ……何が、悪い話ではない、だろうか。こんなこと、芸能界の枕と何も変わらない。それでも、僕は八重が欲しい。いくら汚い手を使ってでも。彼の全てを独占できないことなんて、はじめからわかりきっている。それは不可能だ。でも、金というもので、彼の一部でも支配できたら。堂々と「彼は僕のものだ」と言える根拠があれば――。
 我ながら、驚くほど歪んでいる。自嘲した笑みを浮かべながら、八重の返答を待った。

「……少し、考える時間をいただけますか」
 絞り出すように、八重が答える。
「もちろん。こんなこと、すぐに返事なんてできないことはわかっているよ。ちょっと仕事が立て込んでるから……次に来るのは1週間後になると思う。その時に返事をもらえるかな?」
「……わかり、ました」
「できれば、前向きに考えてくれると嬉しい。それじゃ」
 席を立ち、店を出る。あんなことを言ったのに、八重は丁寧にも店先まで出てきてくれた。
「また、来週」
「……はい」
 先程よりも顔色がよくない。僕の淀みきった提案をぶつけられて、気分が悪くならないわけがない。でも僕は、とても嬉しい。手が届かないと思っている君が、今、僕のことで頭をいっぱいにしてくれているのだから。
 思わず好きだと抱きしめたくなる衝動を抑え、帰途についた。

   ***

 一週間後、僕は約束通り店に来ていた。
 八重は、表面的には全く変わりがないように見える。だけどこの1週間、かなり葛藤したことだろう。カウンターの席につくと、いつも通り彼がやってくる。
「久しぶり」
「お久しぶりです。本当に、きっかり1週間後でしたね」
「八重とした約束だからね。それに、今日は大事な日だし」
 八重はほんの一瞬顔をこわばらせたが、すぐに笑顔に戻る。そして、不意に僕に顔を近づけ、耳元で囁いた。
「そうですね。俺、今日は早く上がるんで。……どこか、別の場所でお話しましょう」
 彼の突然の行為に、頭が真っ白になり、完全にフリーズしてしまう。2秒ほどだっただろうか。すでに八重の顔は離れ、いつもの距離に戻っていた。「びっくりしました?」といたずらっぽく笑う。ただ、その瞳は全く笑っていなかった。

 きっと、八重は覚悟を決めたのだ。僕の望みは叶う。だけど、やはり彼の心までは手に入れられないことを、その瞳が語っている。
 不思議と、その事実を突きつけられても虚しさは感じない。八重にはそうであってほしいからだ。どれだけ汚い泥にまみれても、決して自身の輝きを失わせない強さと高潔さを持っている。
 もうすぐ彼が手に入る。僕は興奮を抑えることができず、八重に待ち合わせ場所だけを告げ、足早に店を出た。

   ***
 
 店を出てから2時間後、八重は待ち合わせ場所に指定したホテルのラウンジに姿を見せた。
 シンプルな黒のボートネックカットソーに黒のスキニー、そしてスニーカーというシンプルな出で立ちだったが、それ故に彼自身の魅力がより引き立っている。私服姿を見るのは初めてだったけれど、実に彼らしいと思えるものだった。
「すみません、お待たせしました」
「気にしないでいいよ、お疲れ様。返事を……と言いたいところだけど、念のために契約内容をまとめておいたものがあるんだ。目を通してもらって、その上で決めてくれればいいから」
「わかりました、拝見します」
 8枚ほどの紙をまとめたファイルを八重に渡す。以前提案した内容を紙面にまとめたものだ。特別付け足した部分はない。僕はただ、八重を自分のものにできればいいだけだから。
「いくつか質問があるんですけど」
 内容に目を通した後、顔を上げて八重が問う。
「何かな?疑問には全て答えるつもりだから、いくらでも質問して」
「仕事を辞める必要があるのはなぜですか?週1程度お会いすればいいとのことでしたら、俺が仕事をしてても支障はないように思えますが」
「僕が給与を払うから、君は働く必要がない、で理由になるかな?……これは勝手な話になるけれど、僕はどうしても仕事上、オフになるタイミングが不安定なんだ。もし君に仕事があると、会いたいときに会えない可能性がある。それを避けたい。それに、バーはライバルが多いからね。虫がつかないように、場所を移さないと」
「……なるほど。わかりました。ただ、今日明日で仕事を辞めるのは無理です。1ヶ月程度、時間をいただくことになりますが」
「それは構わないよ。僕は今すぐに無理やり君を閉じ込めたいわけじゃない。必要な時間は考慮する。あと……そうだ。そこには書いてないけれど、月50万円とは別に、生活費や通信費もこちらで持つよ。その代わり、僕専用の連絡手段を持っておいてほしい。スマホを1台渡そうと思ってるんだけど、いいかな?」
「別に構いません」
 驚くほど淡々と話が進んでいき、八重は特に聞くこともなくなったのか、すでに温くなっているだろうコーヒーに口をつけた。
 5分ほど、お互いに口を開かない時間が続いた後、僕は軽く息を吐き「八重」と、愛しい人の名前を読ぶ。
 彼の目を、まっすぐに見て、答えを聞いた。
「どうかな、八重。僕のものになってくれる?」
「……はい。俺は、あなたの愛人として契約します」
 八重も僕を真っ直ぐに見返してくれる。ただ、その瞳には全く感情が見えなかった。僕への軽蔑や憎しみの気持ちも、悔しさも感じられない。ただただ、八重はそのままを受け入れていた。今後、好きでもない男の相手をし続けなければならないというのに。
 
 ああ、なんて健気で、可哀想なのだろう。そして、なんて愛おしいのだろう。
 どれだけ歪んだ形であっても、八重は私のものだ。愛している――。

    ***

 ただ、八重を僕のものにしたいという衝動だけで提案した契約を交わしてから、半年が経った。
 僕の八重への愛は落ち着くどころか増すばかりで、自分の中にこんな激しい感情があったのかと怖くなる時さえある。
 契約では週に1回ほど会えればいいなんて言っていたのに、週に3回は八重の元へ通っている。色々なものが許されるなら、常に側に置いておきたいと思うほどに。

 仕事を終え、急いでタクシーを広い足早に向かったホテルのロビー。今日は少しいいところで食事をしようと約束していたのに、少し待ち合わせ時間に遅れてしまった。慌てて八重の姿を探すが、それらしい人影は見当たらない。連絡を取ろうとスマホを取り出し、電話をしようとしたその時。背中に優しい刺激が走ると共に、「ここですよ」という、僕の最愛の人の声が耳をくすぐった。
 振り返り彼の姿を視界に収めた時、無意識にため息が漏れた。
 光沢のあるブラックカラーのスーツに、ホワイトのシャツとボルドーのネクタイを合わせた、普段とは全く違うフォーマルな服装。初めて見たスーツ姿はこれまでとはまた違う魅力に溢れていて、もう1段、彼への気持ちが深まった。八重は、どこまで僕を魅了するのか――舐めるように見ていたら「早く行きましょう」と、痺れを切らした八重に怒られた。彼に服従するのも悪くないと思えるほど、僕は彼に溺れている。

 ホテルの最上階のレストランで、夜景と食事を楽しむ。はたから見れば、僕たちは年齢や服装から判断して、上司と部下に見えるかもしれない。……まあ、上司と部下が、夫婦やカップル御用達の場所に来るかは、甚だ疑問ではあるけれど。僕にとっては、周りからはよくわからない二人に見えたほうがいい。実は僕たちには深い繋がりがある。それを知っているのは僕たちだけ――その方がずっと甘美だと思うから。
「珍しいですね、こんなところで食事なんて」
 少し不思議そうな顔で八重がつぶやく。確かにこの半年間、僕たちは外食こそすれども、今日みたいに改まった場所を選ぶことはなかった。
「そろそろ半年になるからね。記念日みたいなものかな」
 我ながら、金で買った青年との記念日なんて気持ち悪いと思う。しかし、僕にとっては最愛の人を得た日でもあり、様々なものに感謝したい日でもある。
「わかってはいますけど……ロマンチストですね」
「別に今まで、記念日なんて全く興味はなかったんだけど。八重に会ってからかな」
 嘘偽りない言葉を伝えると、八重は少し困ったように笑う。彼は、僕が直接言葉で好意を伝えると、はぐらかすような笑みをこぼすことが多い。でもこれは彼なりの優しさだ。一方的に自分勝手な愛を押し付けられるのは、多大なストレスだろう。だけど、八重はちゃんと理解し、僕の歪んだ愛情を受け止めてくれている。
 
 僕の、愛しい大切な八重。一緒の時間が増えることで、多少、彼は僕に心を開いてくれているような気がしている。もちろん、彼の口から「好き」やそれに類似した言葉は一切聞かないし、生理的な快感で潤んだ瞳は幾度となく見ていても、深い愛情を持った眼差しを受けたことは一度もない。それでも、僕にとっては十分すぎるほど余りあるものだった。

「……顔」
「え?」
「……緩んでますよ。気をつけてくださいね?」
 言われて、意識して顔を引き締める。知らないうちに、八重との情事を思い出して顔が緩んでいたのかもしれない。ただ、そう告げた八重の顔は、僕には妖艶に見えて――。

    ***

「人がいるかもしれないですから、離れましょう」
 食事を終えた僕たちは、そのままホテルの部屋に向かっていた。せっかくの記念日なのだから、八重の部屋ではなくホテルで過ごしたい――そう思い、いい部屋を予約しておいた。いい具合に酒も入り、僕は少しでも彼を感じたいと、その細腰を抱き寄せて密着しながら歩いていた。
「関係ない。僕は八重に少しでも触れていたい」
「……そう言われても、誰が見ているかわかりませんから」
「大丈夫。もう部屋につくから」
 八重は説得するのを諦めたのか、素直に僕に寄り添って歩く。彼は、特に外で僕が「異質」に見られないよう、すごく気を遣ってくれている。それは、彼自身が性的マイノリティとして生まれたゆえの行動なのだろう。だけど、僕にとってはどうでもいいこと。許されるならば、僕の大切な八重だと、世界に触れ回って歩きたい。

 そんなやり取りをしている間にも部屋に着き、カードキーで鍵を開け、扉を開く。八重の腰に回していた腕に力を込め、部屋の中に引き入れて、深いキスをした。そのまま引き摺るように、彼をベッドに連れていく。
「あの、まだ、身体が……」
「八重は、わかって用意してきてるよね?」
 僕の言葉に、八重はうつむいて「やっぱりね」と言わんばかりの表情を見せる。そんな彼の態度に、僕は震えるほど嬉しくなる。僕のことを理解して、きちんと対処してくれているのだから。

    ***
 
 ふと、目が覚めてスマホを見ると、5時25分と表示されていた。
 首を右に傾けると、僕の天使が寝息を立てている。少し紫色を帯びた、サラサラの美しい髪。情欲を駆り立てる、左目元のほくろ。華奢ながら、決して角を感じさせない美しい身体。八重は全てが完璧で、全てが愛おしい。

 いつまでも、僕の側にいてくれたら。

 でも、それは叶わない。いつかは、八重は僕の元から去ってしまうし、僕自身、妻や子供を捨てて八重と生きられるかというと――はっきり、そうだとは言えない。
 八重のことは愛している。絶対に失いたくない、大切な人。だけど、僕は彼にとって愛する人ではないし、そもそも対象にいるかもわからない。
 僕が、八重か家族のどっちを取るか迷っていると言えば、「絶対に家族を大切にするべきです」と答えるだろう。
 ただ、それでも、今は――今だけは、八重を独占していたい。彼は僕のもので、僕以外と身体を重ねることもない。歪んでいるのはわかっている。それでも……僕は、精一杯彼を愛している。

 もし、何かの奇跡で。「貴方のことを愛しています」と、言ってくれたなら。
 多くの葛藤を乗り越えて、僕を愛してくれたなら。
 
 ――きっと、僕は全てを捨ててでも、君のもとにいくだろう。

 そんなことは決してないだろうと自嘲しながら、眠っている愛人の額に口づけた。

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